STORY
粂屋は、脇本陣の旅籠(はたご)として江戸後期に建てられた建築であり、伝統と格式ある様式をよく残しています。
街道に面した脇本陣の主屋は、軒が低く、大きな瓦屋根が印象的です。その軒下の一方には、切妻破風のひさしと式台のついた格式の高い玄関が通りに出ています。もう一方は、通りから少し引っ込んで、招き屋根の庵看板のある玄関です。
さらに通りに沿って、大きく開かれた引き戸や出梁の上に手摺りのある二階窓が低い軒下に連なってあり、夕暮れに部屋の明かりが灯ると古い旅籠の風情を感じさせます。
趣のある切妻破風のひさし(写真奥)と招き屋根の庵看板・くめや重右衛門。
粂屋には、通りからの出入り口が三か所あります。ひとつは式台の玄関からは畳敷の廊下へ、奥の一段高い続き間に入ります。次の玄関からは土間へ入り、板敷の廊下があります。さらに広い土間には大きく開いた引き戸から入るようになり、地位により使う玄関も入る部屋も違ったことがわかります。
主屋の奥には中庭があります。中庭を回り込むように畳廊下を通ると、離れの奥の間になります。奥の間は書院造りで格式の高い部屋になっています。床の間や違い棚があり、とくに書院の欄間にある「竹林の七賢」の木彫がみごとです。
低い軒の大きな瓦屋根と夕暮れ時にポッとあたたかな明かりが灯る連窓。
書院造りの客室(桐101)床の間や違い棚、欄間などの意匠に心が和む空間。
主屋の裏にぽっかりと開けた中庭。晴れた日の光も、そぼ降る雨の日もよし。
北国街道は、江戸へつながる中山道の追分宿からわかれ、日本海に面した越後の高田宿をつなぐ約百四十キロメートルにおよぶ街道です。この街道は越後から塩や米を運ぶ道として、また、信州・善光寺への信仰の道としても知られていました。江戸初期には佐渡金山から金銀が産出され、これを江戸に運ぶ重要な道となりました。
さらに参勤交代が制度化され、加賀藩や高田藩など北陸諸藩だけでなく日本海沿岸諸藩の大名がこの北国街道を往来することとなりました。
とくに加賀百万石の大名行列は、総勢五千人の規模となる時代もあり、大いに賑わう街道となりました。ここ脇本陣の粂屋にも、江戸末期加賀藩が宿としていたことを記録した家臣の氏名が記された宿札が残っていました。
雄壮で豪奢な、加賀藩大名行列図屏風(部分)石川県立歴史博物館所蔵。
街道の宿場には、格式のある宿として本陣や脇本陣が置かれ、武士や公家など、地位の高い人々が利用していました。とくに本陣は、大名や皇族などの特別な地位の人々だけに宿泊が許されました。一方、脇本陣は大名の家臣、武士や公家、役人が宿泊しましたが、町人の宿泊も許されていました。粂屋はその脇本陣のひとつです。
北国街道・小諸宿には、歴史的な町並みがよく残された地区があります。粂屋のある市町には重要文化財でもある小諸宿本陣問屋場の建物も残っています。
江戸末期の宿札。脇本陣粂屋を宿とした一行の名を記した遠き古の記憶。
旧小諸本陣(問屋場)重要文化財。左側の表門から大名の駕籠が入りました。
粂屋の前を東西に走る北国街道。東(写真右手奥)に進むと、突き当たりには徳川家康の母「お大の方」の位牌がまつられた浄土宗の古刹・光岳寺があります。
小諸城は、懐古園として知る人も多く、日本さくら名所百選でもある名勝です。「懐古園」の扁額のある三の門(重要文化財)だけでなく、四百年前に築かれた大手門(重要文化財)や野面石積みの石垣が残り、日本百名城でもあります。また、小諸城は日本で唯一の「穴城」です。北国街道の宿場町より低い位置に小諸城の大手門があるなど、特徴のある戦国時代の城です。
今にも武将たちが飛び出してきそうな小諸城址・懐古園の三の門(重要文化財)。
江戸時代初期、街道や宿場とあわせて城下町も整えられました。小諸でも城を回り込むように北国街道と小諸宿があり、さらに外側を囲むように社寺仏閣があります。小諸城の城下町は、北国街道をはじめ古い道や町割りが江戸時代のままによく残っています。とくに小諸宿の本町には、江戸時代の町並みも残されています。
小諸宿に残る江戸の町並み。古い商家が立ち並び、往時の賑わいを感じます。